Location : ASAHI ART SQUARE / TOKYO
Images & sounds : Hikaru Fujii
How to invert urbanism/Survivart
http://asakusa.survivart.net/
芸術関係者 各位
芸術の労働問題。このアポリアを私たちの切実な問題として脱構築するアクション+映像制作にご参加ください。アーティストやアートプロデューサー、 アートNPO、技術者など断続的に雇用されるクリエイティヴ・レイバー(芸術労働者)が、アサヒビール本社の地下駐車場に数十基のテントを張り、芸術と労働に関する新しい概念/声をあげていきます。
墨田区役所前広場にも、無数のテントが張られ、美術、音楽、映画、アニメ、文学、デザイン、ダンス、演劇、建築関係者が座り込みのアクションを行います。自営でもなく、有期/無期の給与所得者でもなく、産休や労災、失業保障もない芸術労働者たちの生活実態を知る家族やパートナーも参加します。芸術労働者たちのかげがえのない一回性の生が、芸術の条件である事を知る学生やこの社会で多数者となった有期雇用者たちもいます。
当日のアクション/映像制作に参加できないが、このプロジェクトに関心ある方は、下記のコメント欄から、芸術と労働に関するご意見を投稿して下さい。真撃な無数無限の批評言語が、芸術と労働の新しい関係性を創出していくと私は信じています。藤井光(美術家・映像ディレクター)
【日時】2010年9月25日(土)10時/15時/20時集合(全3回)
【場所】アサヒ・アートスクエア前広場(浅草駅、徒歩5分)
【持ち物】プラカード、作品、楽器、PCモニター、拡声器、絵コンテ、寝袋、助成金申請書、マンガ、パフォーマンス、食料、請求書、コンパクトチェアなど必要と思われるものを持参ください(広場撮影使用条件として、手で持ち運び出来る範囲のものとなっています)。テントはこちらで用意いたします。
【問い合わせ】contact(at)hikarufujii.com
To whom it may concern,
We are calling for participation to our outdoor short film shooting project ‘Our Strike’ on 18/09/10 (Sat) at Sumida Ward Council Tokyo (NB: shooting to be confirmed). The aim of this art project is to draw public attention to enduring social and economic environment ‘creative labours’ have been facing. Participants will be asked to perform in a demonstration-style short film so that it becomes an artwork of ‘action’ and ‘film-making’ simultaneously. Regardless of genre whether visual arts, music, film, literature, animation, theatrical arts or even art-lovers, we would like to invite you all to take part in this project. If you are willing to participate, please email us to contact(at)hikarufujii.com.
We would also like to hear your voices about art and labour, so please post comments below with your name or title (Please refrain from posting comments libellous to any specific organisation or individual). Looking forward to hearing from you all, Hikaru Fujii (Artist)
一回性の生の「時間を拘束される」ことをもって労働とするならば、私はこれほどまでに社会的・経済的な不安定性を引き受けなくていいはずだと思う。
時々、この先に本当に未来があるのだとうかと考えてしまう。でもきっとあるはずだといつも思い直したりする。昔読んだ「この坂を越えれば海が見える」というフレーズがよく僕のあまたをよぎる。
芸術は「生産性社会に対して、あからさまに無目的を誇示する行為」で「資本主義社会の”労働の疎外”に対する一つの抗議でもあり得るはずだ」
アートと労働を論じる前に各人の労働という言葉に対する意味(イメージ)の統一が必要。
地球人には労働を賛美する者もいればネガティブにとらえる人もいる。
あおひと君の星には労働という言葉(概念)は存在しない。
労(ねぎら)って働く? 労とは「いたつき」、つまり病や苦しみのことだという。
労働とは構造主義的なレトリックでかつての支配者階級が編み出した自己犠牲から自己満足、つまり自分の立ち位置に納得させるテクマクマヤコン、呪文のひとつ。
そこでアートと労働とは?
アーティストは意識的に創作が自己犠牲だと認識できないのが悲劇だと仮定して、アートも労働も自己犠牲が自己満足に帰結する、という点では同じ生産活動だ。
アートはDNAに支配された労働で、労働とは一部、どーしようもない人間に支配されている生産活動だ。
どっちがいいか?
あおひと君はどちらも嫌じゃ!
大変に興味深いプロジェクトですね。当日は必ず参上します…。
全ての生命活動は余剰エネルギーの浪費という話を昔しましたね
時間ができたら遊びに来てくださいね
芸術関係者によるストライキは過去に幾度か行われ、私はその度に冷ややかな態度をとってきたが、冷ややかさや無関心を装った、もしくは隠れていて見えなかった視座からの表現があらたにうまれることを知った今、ストライキをするあらゆる人々に私は関心を寄せる。協力し続けることは難しいかもしれないが、ストライキ行為の影響をつぶさに観察するべきだろう。
ストライキを執り行なうということは、社会への不参加ではなく、そしてもちろん既成概念への服従でもなく、あたらしい表現領域を獲得するためには不可欠な行為である。
社会的・経済的に不安定というが、美術を選んだことがすでに運命付けられたいばらの道ではないのか。生活をしていくためには、お金もうけの役に立たなければいけないのにも関わらず、美術は基本的にその真逆にある世界なのだから。
たくさんある選択肢の中で、それでも表現する世界に身を置くことを選んだひとたちは、その世界しか選択せざるをえなかった、悲しい才能をもってしまったひとたちなのかもしれない。
一方で、私のような会社員は、平日の間、課題と責任を常に突きつけられて疲弊し、休日にはその反動で何の気力も起きず、無目的に寝ているような生活をしている。また多くの会社員が風俗や酒やたまにスポーツなんかでおんなじようにストレスを解消し、充足を得ようとしている。
決して何の疑問もなくそうしているのではない。ばからしいと思う瞬間はある。けど少なくとも僕は、虐げられる日常の中で社会に貢献し、そこから利益を得ているという自負がある。それが自分のしたかったこととか、自分に向いていることではなくても、逃げずに責任を取ることを正しいと思っている。
表現をするひとたちの社会的・経済的な不安定さを憂い、その状況をなんとかしたいというのはわかる。けど
その辺りに大勢いる、ある意味つまらない生活をする多くの社会人と、表現者との間にある溝は思ったより深く、それを理解させるのは思ったよりも大変だと思う。
「好きで選んだ道でしょう」と言われる。でも好きで貧乏している訳ではない。
私がそうであるように、美術が好きであって、貧乏は好きではないはずだ。
自由を得るか、金を得るかの選択を突きつけられなければならない現状にうんざりする。
これで良かったんだと思えるようになりたいし、これで良かったと思わせてほしい。
芸術と労働(経済基準)は根源的には『運動体』である事には間違いない。
現代美術の現段階の位置は信仰ではなく、民芸ではなく、あくまでも美術館やギャラリーなどの「箱」から発生しているエンターテイメントであり、商品である。だから見世物小屋と対して経済観念は変わらなく、水商売であり、明日の事はわからない。
労働とは生産活動や経済活動への参加であり、そのクライアントなり雇用主がいて、対価を求めるものである。現在、美術に対しての雇用主が極端に少ないので、経済活動としてみた時には需要と供給は合ってないのである。
もし、経済活動としての美術のあり方を模索する場合は、見世物の延長である、「観光」の考え方を入れるといいのかもしれない。
http://www.mlit.go.jp/kankocho/kankorikkoku/index.html
そうすれば、美術的な雇用も商売も確保できるかもしれない。
観光の対象物で、人間が精神活動としてモノを作り出す時、ピラミッドを作ったり、大仏を作ったり、祭りを催したりする事に対して共同出資をする関係がある。そこには労働者自身も投資している。
そこには精神の充足への代償としての労働なり、寄進などがある。
芸術が商業的な位置づけに出来るのはギャラリーや画商などのシステムデザインされた部分でしかなく、
投資、消費目的の対象になる。
商業的成功を求めるならば、それなりのやり方はあるし、
それ以外ならば、祭りとして考えて協賛金を募る方法が妥当である。
新しい方向性として、日本に美術の公共事業的な思考がこれからも増えていけば、円滑に動く『運動体』としてのシステムができそうである。そこは地方の国際展や数多くの美術コミュニティーに期待するところである。
美術に対しては労働という言葉は使うべきではなく、『運動』を使うべきだと思う。
結局は、どんな形であれ「生き抜く」しかないのではないかと思う。様々な職業の人間が、様々な手段、方法を使って生き抜くのと同じように。また、取り巻く環境も含め作り上げていくこと自体がその作品を大事にする事であり、芸術の一環なのかもしれないと思う。
>「クリエイティブ・レイバー(芸術労働者)」の置かれている不安定な社会的・経済的な制作環境を・・・
「芸術家」と「労働者」のSynthese。そこに多少の違和感を感じつつも(それは、自分が労働者として創造の瞬間に立ち合っている時に、周りから、奇異な存在として見られるのに似て)、新たなる社会内存在が立ち現れる状況を、期待をもって見つめています。
内からと、外からとの違いはあっても、応援しています。
芸術家と銀行・・・ルネサンス期の銀行家メディチとは違って、日本の役人主導の日銀がやってきたことは社会主義。
その昔、バブル期の好況を人為的に叩きのめしたのは日銀であるし、マスコミでもあった。
これからは、自由な起業活動、自由な芸術活動を保障するために、原則「自由放任」を建前とすべき。
そうするとものづくりを忘れた芸術家は淘汰されてしまうが、才能をつぶされる社会主義よりは、自由主義市場経済のほうがすばらしい芸術作品が残っていくので、良い。
なお、現実的に芸術家は「社会の金まわりの良さ」とは決別できないし、あえてそれから離脱するならば、自前で経済的自立を達成しておかないと自由になれない。
芸術家は自分の作品を商品として売り出す事に長けてはいない。
中にはいるけれども、やはり、芸術家である私の両親を見ていてもなかなか難しいと実感する。
生活のための仕事を適度に行い、休日にアトリエに通う、など。
日常の隙間を見付け、現代社会に対して発言する。
芸術は労働と言えるのか?
芸術とは事柄に色をつける作業。
労働とは何かの価値を生み出すものだとすれば、芸術は立派な労働である。
色のない世界はつまらない。
指定管理者制度の導入によって、
公立美術館で働く者の雇用が原則、期限付きとなった。
事業仕分けによって、
助成制度の見直しが求められた結果、
美術館の行う展覧会はますます偏りを見せるだろう。
キュレーターも、プロジェクト毎の契約、独立採算という雇用形態が増えていくのか。
プロジェクト毎に場を転々とする「出稼ぎ」の労働形態で、
地に足のついた芸術文化の土台を創造する目標はあまりにも大きすぎ、
それに伴う自己犠牲は、とてつもない。
No art, no life! という理想を希求する叫びが、
no life, no art という生存の叫びへと逆転する。
まがりなりにも会社から給料をもらって、会社にしがみついて生きております。
芸術と労働ということですが、そもそも芸術一本で食べていくというのは、やっぱり大変なことだと思うのです。
場違いな話かも知れませんが、落語家の桂米朝さんは、入門する時に師匠から「末期哀れは覚悟の前やで」と言われたそうです。
昔の芸能者は、身過ぎ世過ぎのために芸事で食べていくしか仕方がなかった人も多いと聞きますし、あえて好き好んで芸の道に入るということは、その先の困難を覚悟の上のことだったのでしょう。
私としては、むしろ芸術が専業の芸術労働者によって専有されていることのほうがいかがなことかと思っています。
今回のストライキにこういう動きがきて当然だと思い、共感をもって群馬から見てます。
芸術と労働、どちらも太古から人間が関わってきた活動だし、近代になってどちらも職業意識、倫理ともむすびついた概念でもある。いまだ定まった定義がこれらにあるのではない。むしろ議論され組み替えられ、作りだされて行く作業がまだまだ続くはずだ。当事者側からの発言、行動が不可欠になる。
そうした活動、職場のひとたちの声が聞こえてくることが大切だ。外へ向けて声をだすこと。議論の場がつぶされないで持続していくこと。
ストライキはまだまだどこまでも続く。
「クリエイティヴ・レイバー(芸術労働者)」という単語を初めて知りました。
さてそこで、「僕はクリエイティヴ・レイバー(芸術労働者)です」と宣言した時、感じること、考えたことを書いていこうと思います。
「芸術」と「労働」が並んだ時、ちょっとした違和感を持つのは僕だけではないでしょう。
●芸術について
「芸術行為は労働なのか?」まず、パッとこの疑問が思い浮かびます。
1)芸術は好きでやる。(よって労働ではない)
2)芸術は貨幣価値換算出来るものではない。(よって労働ではない)
3)そもそも芸術は産業構造内に入らない。(よって労働という産業構造内の事柄が当てはまらない)
ではこの3点について自分に問いかけてみる。
1)自分は芸術を好きでやってるのか?
絵を描くと手首が痛くなるし、自分のアートについて考えると、もうほとんど可能性は残ってなく絶望的でシビアな現実から、どうやってほとんど妄想のような想像と創造を産み出すのかを考えるしかないのでひどく苦痛だったりする。もう他につぶしもきかないし、引っ込みも付かないし、祈りを続けるより他に選択肢がないというこの狂気じみた信仰のような心境で、好きなことをしているという感覚はもうほとんどない(それはある種の恍惚ではあるかも知れないが)。ただ、「好きではないことが労働である」ワケでもないだろうから、好き嫌いと労働の関係はあとで考えよう。
2)自分は芸術を貨幣価値換算してないのか?
自分で値段つけて絵を売ってるし、自分の絵をイラスト・デザインとして使用する場合はギャラを貰ってるし、絵を描いてと頼まれた場合もギャラを頂いている。断続的ではあるが、これはガッツリと労働だ。コンスタントに繋がりたいものだ。
3)自分の芸術は産業構造の外側なのか?
「マーケット・インとプロダクト・アウトとカスタマー・イン」という産業構造に案外とすんなり当てはめることができる。
「自分の感覚で描いた絵で個展をする」は、要するにプロダクト・アウトである。「あなただけの為に絵を描く注文制作」は、つまるところカスタマー・インである。そして、褒められた作品から画風を展開させて行くのはマーケット・インである。概念的には産業構造から外れないなら、制作を労働と規定しても良いのかも知れない。ただし、すべてが産業構造内でもないけど。
芸術とはなにか。それは身体化に辿り着いた哲学である。身体化によって生じた形式である。
何をもって芸術家というのか。その表現の為に身体が奇形してることによってである。
僕にとって芸術とはなにか。それは仕事である。
〈アートは豊かなところに棲息する〉
芸術があるということは、それを芸術と認識するかは別として、その人やコミュニティが豊かである証しだと思うのです。豊かさとはまことにざっくりした言葉ですが、ひとつ「生命維持行為のみで終始していない時間的精神的余裕がある」、ということでしょう。精神的余裕には信念も含まれると思います。奪われていない心とか。貧乏でも芸術作品を作っている人は、その時点では時間的精神的に余裕があるからです。
例えば、アルタミラの壁画や縄文土器も、それらが作られる背景として(自然や天変地異は容赦なく人間を苦しめ殺めたかも知れませんが)、その社会は人間の生存を保障していたことになると思うのです。
現在に目を向けてみると、幸運にも僕の暮らす日本のインフラは行き届いている。物質的には満たされている。もう生命維持は技術的にクリアされてると思うのです。何気に買い物をしようとした時、「僕はこんなに金にならないアーティストだけど、生きてくのに必要なものはとりあえず揃っている。欲しいものなんてないんだなあ」と思ってしまって、消費の快楽に参画出来ない寂しさを味わうことがしばしばあります。豊かなんですよ、裕福層ではないにしても。運がいいだけかも知れませんが。だからこそ僕は絵を描き続けられてるのです。
ところで、アートとは「需要と供給のバランスがとれてないもの」と云われることがあります。ところが、現代日本はほとんどの商品がアートと同様の「需要なき供給」であり、どう差別化、ブランド化するかだったりしています。
火にかけても底の抜けない「やかん」はすでに誰もが持っているのです。あとは「持ち易過ぎる手触りのやかん」だの「一人用のやかん」だの「有名人がプロデュースしたやかん」だの「伝統の南部鉄やかん」だの「100円のやかん」だの「カラフルなやかん」だの、と付加価値を与えているんです。家電にしろ車にしろ食べ物にしろ服にしろ。
余剰分つまり余裕やクリエイティブが商品価値である事の意味において、それはもはや「アート」なのである。僕らの日常はアート化された日用品や風景に囲まれているのだ。
Art(ist)はもう特別なものではなくなってるのは喜ばしいことかも知れないが、では「アーティスト」として生きてくにはどうしたらよいのだろうか。
a)商品競争と全く同じく、不要な余剰を価値として作り出し、差別化やブランド化を謀る。
例えば「生茶」が売れてるらしいが、それはネーミングだそうだ。生である意味も実質もなく、生という言葉で売れているらしい。これはコンテクストをでっちあげ、プレゼンテクニックだけで数字を盗りに行く今流行の現代アートもまったく同じ構造である。なんとなく、アメリカと中国を足したような下品さが否めないので、個人的には嫌いである。
b)最初からアートでの収入を考えずに賃労働をしながら兼業アーティストとして生きる。
これは割合としてはマジョリティだと思う。一昔前よりすんなりと兼業アーティストをやってる人が増えたのではないでしょうか。20代の頃、僕は兼業アーティストとりわけ先生兼アーティストを忌み嫌っていた。なぜ挑戦者であるアーティストが上から目線の先生になれるんだ? と疑問だったのだ。今の20代は恵まれ過ぎているので、そういう貧乏臭い価値観を持たないのだろう。持続可能性を考えたらこの選択肢が最も正しいと思う。まさに現代の日本っぽい。
c)運を天に任せて何も考えずに制作する。
これを選ぶのはバカである。ひたすら制作することによって身体化し、ひとつ芸の領域まで到達出来たら生き残れるかも知れないという幽かな希望はある。近代以前の日本のようなアナクロなイメージである。
果たして僕は「c」を選んだのであった。そして今回、もうひとつの選択肢が加えられようとしている。
d)自分は芸術労働者(クリエイティヴ・レイバー)であると自覚し、労働者としての権利を訴えて保障を獲得する。
なんとなくヨーロピアンな香りが漂う選択肢である。しかし、そんなうまくいくのであろうか。
●労働について
ところで「労働」ってなんでしょう? wikipediaによると、「労働(ろうどう,英:Labour)とは、人間が肉体や道具を用いて対象にはたらきかけ、人間や動物にとって有用なものをつくりだす行為である」とある。
ここで何が「有用」なのかを問うとややこしくなる。「無用なダム、無用な絵画、無用な戦争、無用な低カロリー食品 vs 有用なダム、有用な絵画、有用な戦争、有用な低カロリー食品」を考えるのはまたの機会にとっておくとして、「肉体や道具を用いて対象にはたらきかけ、(有用無用問わず)何かをつくりだす行為」となると、人間のほとんどの営みは労働ではないだろうかとも思えて来る。
「雇用された賃労働のみが労働である」という、近代に作り上げられた労働価値観は根深く残ってはいるけど、労働ってそれだけではなかったりします。雇用関係も賃金も発生しない労働ってあるし、今まさにそれらの労働が表面化してる最中であるとも言えるでしょう。
それらをざっくりと「近代の崩壊で現れた労働」と呼んでみてプロットすると、
イ)疎外されていた営み
ロ)能動的な営み
のふたつが思い浮かぶ。自分としては、イは「近代によって蓋をされた原始的労働」、ロは「これから労働」、というニュアンスなのだが。順を追ってみよう。順を追ってみよう。
イ)疎外されていた営み
例えば、前近代的な大農家コミュニティ。主に女性が行なった台所仕事、主に子どもが行なった更に小さい子の子守り、主に男性が行なった力仕事、確かに性別年齢によるヒエラルキーはあったかも知れませんが、それらは全てコミュニティを守り維持する為の労働だったと思うのです。専業主婦の家事、町内の掃除、ご近所付き合いも、コミュニティ維持の日常労働と言えるでしょう。
そして、コミュニティ維持の非日常労働としてお祭りがあったんだと思います。芸術の原点はお祭りです。その疎外されてきた根源的な何かこそ芸術に求められる要素だと僕は思ったりしてるのです。
コミュニティ維持労働は、どこか貨幣換算しずらい特徴を持ってます。なので、労働として認識されにくかったのですが、近代の崩壊によりその原初的な営みが立ち現れ、労働の意味を問い直させてるような気がするのです。
ロ)能動的な営み
例えば、フリーソフトを公開してドネーションを得る、絵やマンガを描いて展示会で売るなどのプロダクト・アウト。ひょっとしたらコスプレもそうかもしれません。金銭にならなかった場合、この膨大な営みは「道楽」と呼ばれ、金銭にする目的がない場合は「趣味」と呼ばれます。
どうやら、頼まれてもないのに行なう能動性が高い行為を労働とは呼びたくない心情が働いてそうです。労働には「楽しくないこと」、「出来ればやりたくないこと」、といった感情が含まれてるようなのだ。
僕はこれを仮にこう解釈してみます。雇用された賃労働者の権利を訴える時、不当労働として被害者正義を強く打ち出して組合運動を行ってきた。被害者正義は心情的に昂ると悲劇的ナルシシズムとなる。ハマれば盛り上がりそうだ。確かに被害者で正義な労働は今でもあるだろうが、運動にはナルシシズムが付き纏う。特に悲劇は歓迎されるだろう。しかし、能動性の高い行為にはどこか加害者性が潜んでいるので、悲劇的ナルシシズムが喚起されない。労働者は被害者正義であって欲しい気持ちが、「楽しく見える能動性の高い労働」を認めさせないのではないだろうか。
●クリエイティヴ・レイバー(芸術労働者)とは
派遣までの労働問題は、言ってみれば雇用問題だと思うのです。派遣という非正規雇用者たちは、経営側と正規雇用組合側のダブルパージを喰らうという悲劇的構図でした。
派遣労働問題が整頓されて来ると、いよいよクリエイティヴ・レイバー(芸術労働者)問題が浮上すると予測できそうです。
クリエイティヴ・レイバーとは自営業、フリーランス、ひとり親方といった個人事業主以下の労働者だ。現在では無職やニートにカテゴライズされるだろう。
資本家│壁│経営者>雇用者>個人事業主>>>>無職・ニート(クリエイティヴ・レイバーを含む)
こうして見ると、絶望的に酷い。「好きでやってるんでしょう」と死にそうになってもまったく同情されない恐怖、そして本当に孤独のうちにのたれ死ぬ恐怖、のオマケ付きだ。
さて、僕は今日、芸術労働者宣言をする。
僕は普通に生きていきたい。絵を描いて生きていきたい。家庭を持って生きていきたい。幸福でありたい。芸術労働者である僕がこれらを実現したならば、きっとこの社会はとてもステキな社会なのだろう。
売れるか、悟るか、ベーシックインカムになるか。
(つづく
※【日刊デジタルクリエイターズ】武&山根の展覧会レビュー 特別編『画家よ生きてくれ! クリエイティヴ・レイバー(芸術労働者)宣言/武 盾一郎』より一部修正 http://blog.dgcr.com/mt/dgcr/archives/20100908140200.html
結局、アーティストでもなんでもええけど、自分の創ってる物を担保したいんよね。どっかに。その感覚は正しいけど、その矛盾は解消されるの?どのような社会システムが構築されたらそれが解消してくれるの?そんなん無いってみんなわかってる上で、どないすんの?これはそのままクリエイティブレイバーのとこに投稿すればいいのかね?そんな矛盾もなかったら、あなた何物?って思ってしまうのです。まあ字面を読んでのことですが。
社会運動に関わり、さまざまなアーティストと触れ合う場面で、
芸術は高尚で政治は下劣だ、と見下されることが多かった。
逆に芸術活動は社会への働きかけを怠っている、と批判もした。
政治的言語が何かを成し遂げることはない。
政治的行動が世界を1mmたりとも動かすことはできない。
これは当事者として実感している。無力感。
だが、とても矛盾するのであるが、
政治的言語が他者に働きかけ、
政治的行動が社会を動かすことも経験しているのだ。
政治的言語が他者に働きかけるときには「力」が発生する。
政治的行動にも「力」が作用する。
それは「暴力」と呼ばれるものである。
上記の「政治」を「芸術」に置き換えてみて欲しい。
政治的言語が他者に働きかける「力」と芸術が他者に働きかける「力」。
他者の心に否応なく働きかける「力」についてボクたちは気づいてきた。
政治の言語(活動)と芸術の言語(活動)に優劣を付ける意味など無い。
人間が人間になるに際して、自己と他者との関係を取り結ぶために構築したもの。
それらに境界線を設けることが無意味だということを悟ったのだから。
私たちは硬直した価値観を取り払う作業を通して
それぞれの仲間内でしか理解不能になってまいがちな「言語」を溶解し
表現の可能性をさらに追求したい。
楽しみです。
主観的値打ちと客観的値打ちが折り合わずに苦しむ・・・というのは、よくある話で、主観的値打ちを大切にしている作家の仕事を「おお、それ売ってくれないか?」と言う人があらわれ、金銭のやり取りがあったら、経済行為となるということだと思います。
ただ、日本は20年以上もダラダラと不況を続けてきましたので、仕事が減り、所得が減り、消費が落ち込んでいるところで、増税するぞと脅され、消費者は購買意欲を失って、アーティストは「せっかくの労働に価値が生じてこない・・・」とうめいていると思います。
そこで労働価値説については、アダム・スミスのものと、カール・マルクスのそれとがあるので、その両者に対する見識がないと土俵に乗れないのですが、それでも素人意見で言わせてもらえば、芸術は「仕事」、ルーチン的な作業は「労働」であると言いたいですね。
もちろん、芸術性を高めるためにルーチン的な労働・作業があるのは知っていますが、結果的に「買いたくなる」ようなものを作者がつくりあげていなければ、経済活動が成立しませんし、仕事の完了をみることもないと思います。
本来ならば、ハンナ・アーレントの『人間の条件』あたりを読んでから、労働と仕事に対する選別を行うのが玄人の仕事であると思うのですが、「労働になってしまった芸術」や「仕事にも労働にもならない芸術」――むしろ芸術と言うよりはアート――があることはわかります。
そこで、起業家、資本家=悪という発想になってしまうならば、マルクス的発想に近いものがありますし、仕事をすぐに処理しないで景気の回復を遅らせているのは役所であって、そのくせ雇用を創出する起業家、資本家に対する役人の「お怒り」は、「民間の羽振りが良い状態は、あまり好きではない」という精神構造を持っているからじゃないでしょうか?
そのような情勢の中でも、自分がやりたくて突き進むことは大事ですし、消費税の増税に震え上がって購買欲が減退していますが、潜在的な買い手はたくさんいますので、「買いたくなる」ような作品を製作して、顧客を創造し、リピーターになってもらってください。
自国通貨が強くなっている日本は現在円高ですから、どこの国もつくれないような付加価値の高い作品が望まれていますので大丈夫ですよ。
円高であるからこそ芸術の時代がやってきたと言えますが、ただ、需要はありますが、そこらへんにころがっているようなものじゃ通用しませんよ。
労働は生活になくてはならない、健康に生きるための必須要素だと思います。
芸術も、同じく健康に生きるために必要だと思います。
労働の対価(報酬)が、お金でなくてはならない理由はないと思うので、
芸術=労働の対価=お金ではないものも含む。
小さなテントほどの
決められた広さ
お金できゅうくつになるのは 皆 嫌でしょう
お金がなくなって やさいや おかし交換がよい
タバコもさいばいしたい
どぶろく つくりたい 分ける
ストライキ
もうやっちゃってるじゃん
まずいか?
どうする
やりたいことをやろうとしててお金がない人については
私もいろいろ考えているので
この中で文章としての中でのコメントをするのは
非常に難しい。
映像の中の事だけについて話すと、
「〜ない」という言葉で語り、不平みたいな空気がただよってる。
数分間が本当にイライラした。
ただグチを言ってるところからの人の話は
私はききたくないと感じます。
その人が知り合いでそうじゃない面も知っていたら
別かもしれないけれど。
お金にとらわれすぎてそこに恐さをもっている人は
そこから脱しないと、いつまでもその中で苦しむのかなと思う。
脱するのは意識的なことという意味なんだけど。
お金は生きるための一つの要素でしかないから
違うものに気付いていけばいいんだと思う。
・Time Is Maneyなんて誰が決めた?
べんりだし好きなコトバなんだけどね。
・いつから生命に値段つけるよーになった?
・サービス残業て?
テントは
RAVEにも
FESにも
[ストライキ]にも
つかえる!
これ関係をはじめて
第2ターンで、みなここに
ぶつかると思います。
そこから
それぞれに妥協したり
道が分かれていく。
こういう声を上げていくのは
良いことだと思います。
なんらかの運営可能な無秩序を
コントロールすること自体が資本家にとっての
ひとつの市場である。
それに対するストライキが芸術家、
つまり、私たちのストライキである。
コメント フォー アワーストライキ ワークショップ5日目
9月18日 夜 元我堂にて
「芸術と労働の問題。」ということなので、芸術と労働と書く
けど、そこは美術、アート、仕事だったりと、置き換えて読む
ことが出来ると思います。
労働には様々な種類がある。
芸術にも色んな形がある。
時にソレが「労働」だと万人が思わないような(見えないよう
な)労働が存在する。
時に必ずしも直ぐに「芸術」だと分からない(見えない)芸術が
ある。
多くの労働には定期的もしくは不定期的にでも勤務時間という
のが定められていて、労働に対して給料という形で換算される
。
芸術の分野には勤務時間というのがない。
たとえば夜中の3時に目が覚めてパっと浮かんだアイデアとか
、夢に出て来たものや出来事が制作につながることもある。
そして、何時であろうと、過ぎてゆく時間など気にもしないで
アイデアを広げていったり調べてみたり実験的に作ったりする
。
残業などというのもなく、お金や予算がもっとあれば、もっと
違うものが出来るかもしれないと思ったり、思わなかったりし
ながら制作は進んでいったり、進んでいかなかったりする。
時に不安定で未知的だったりすることもあるけど、それも仕事
のうちとして進めていく。
人+動=働
人が動けば全ては「働く」というのではないけど、「働く」「
働き」に成り得るということだろう。
どんなに貧しい国の人々でも、毎日何かしら食べて生きている(
生きていこうとしている)。
ガブリっと何かを生で食べるとか、出来上がりのものだけを食
べて一生を過ごす人は稀だろう。
食べると言えば料理だ。
料理するという行為は多くの人々の日常の行為であるけど、そ
れが例えば学校の食堂とかレストランだと、ここでの料理する
という行為は「労働」となる。
食べるというのと平行線にあるのは飲む。
これだって「労働」になったりする。
例えば食品開発や調査のためということで何種類もの飲料水を
飲み比べて受けた印象や問題点を伝えたり、書いたりするのだ
って立派な「労働」に成り得る。
ある日唐突と空から芸術とか作品が降りてくるわけではない。
多くの「労働」がそうであるように、「芸術」の分野において
も頭、身体、精神(心)を使っての作業に変わりなく、一人一人
が社会・世界の参加者であることに変りはない。
絵が描きたくて、絵を描くためには生きていかなきゃ
いけなくて、生きるためにはお金が必要で、お金を
得るためには働かなければならなくて。
働くと、気力と体力と時間がうばわれて、
気力と体力と時間がうばわれると、絵が描けなくなって。
そんな風に、負のループのはまってしまう時、
私もストライキをしたくなります。
「労働」に対してだけではなくて、「人生」にも。
でもストライキするだけの勇気と気力があるなら、
なんだって出来るはず。
だから、ストライキをするだけのパワーはストライキに使わずに
もっと大切な時のためにとっておきます。
ストライキ貯金。
川崎ゆきおという漫画家が、イラストエッセイで職場へ向かう朝の人の流れを評し、聖地へ向かうみたいだ、などと述べていたことを思い返しております。この映像、気持ちいいというか、シュール、デルヴォーというか、内に閉じているとか、いう方もいるみたいですが、墓というか、敦煌とか、猿橋、開発の風景、ポーの亡霊形式の小説、ジャーナリスティックな小説とか、つぶやく、うごめく、つぶがかがやく、麻薬的なハナシかもしれないですが、まとまらないんですが、こんなところで
もうこれは芸術家だからとかの問題ではない気がするのだけども。誰がお金の量を決めて流通させているのか、そこからアンチテーゼの発想の出発をしないと意味ないんじゃないかな。
確かに。
ストライキしている暇があるなら、もっと汗を流して制作すればいいのに。
ただ、「変わり者」をはじく「村八分」的島国根性によって、一部の天才肌の人材を、二度と社会に復帰できないほどに追いやってしまう国民性がある。
よって、ストライキは無駄でもある。
ストライキは平等のための戦いであったようだが、アーティストならば、クリエイターならば、自分を鍛え、作品で勝負し、決着をつけないといけない。
高齢化が進み「縮み思考」のあれだめ、これだめの閉鎖的な日本社会のなかで、どこまで自由のために戦えるか?
未開の地へ向けたフロンティア・・・いま、必要なのは手塚治虫のような、下級な漫画を引き上げる「天才」である。
作品の制作環境や待遇、権利などの
不満を「ストライキ」という形で表現する
自分たちの外部に変わってもらうことによって
問題を解決しようとする
映像を見ているとその他力本願的な感じに
少しぬるさを覚えた。
でも、それは映像の人たちだけではなく
「ストライキ」という行為自体に言えることなのかもしれない。
だから「ストライキ」こそ「ストライキ」すべきでは?
自分が変われば環境も変わる。
その環境に影響されてまた自分も変わっていくという円環構造。
「ストライキ」で止まってしまうのではなく
「ストライキのストライキ」で動き続ける
ことにこそ可能性がある気がする。
リラックスして
えがおをたやさず
よくばりましょう。
むりせず。
労働の定義は?
すきなことをやっているときには
労働という観念は浮かばない。
行為が目的
ストライキせよ!
自ら望んで自分のアートを
労働、主人との関係性に置くと、アートが狭い空間に閉じ込められ、
自由になるためのものが不自由になってしまう。
フリー、そして闘い続けること
何に対してのストライキなのか
いまいちわからなかった。
制作を続けたいのであれば
自分自身のプロモーションの仕方も
考えなければならないし
今の時代はいかようにもそれが
可能なのではと思います。
少し甘えのようなものを感じました。
左翼の親を持つ子供が、
無自覚な左翼のように、
ストライキで駆け回った親を持つ子供も、
衝動的にストライキを起こしたくなる。
しかも、
労働組合が多く集まった今回の新内閣は、
70年代安保闘争の「青春時代」。
雇用を創出して
国民の生活を第一にすることができなくても、
それでもストライキはしてみたい。
ストライキがことのほか好きそうだ。。。
しかし残念なことに、
雇用できる企業が減っている現在
向かうべき対象がない・・・。
まぁ、
それでも
責任を背負うリバティ(自由)なんかよりも、
自由気ままなフリーダム(自由)の刹那的。
とにかく
ストライキすることが好きなんだ。
自分たちの
表現の自由、
言論の自由、
信教の自由、
集会・結社の自由などが
リバティか、
フリーダムか
のどちらであるかは、
責任の有る無しによってわかるんでしょう。
うまい言葉がありませんが
この映像が焼き付きました。
考え続けていきたいと思います。
労働は生活になくてはならない
健康に生きるための必須要素だと思います。
芸術も同じく健康に生きるために必要だと思います。
労働の対価(報酬)がお金でなくてはならない理由はないと思うので
芸術=労働の対価=お金でないものを含む
「作品を売る」だけが芸術家の生きる道ではない。作品を「売らない」芸術家、たとえば趣味や余暇の範囲で創作する人や、もっとラディカルに商品経済を拒否しオルタナティヴな社会経済のあり方を表現する人がいる。一方で、「作品でないもの」を売る芸術家、たとえば一人親方としてプロジェクトを請け負ったり、そういう人に雇われたり、文化施設や非営利組織で賃労働をする人がいる。さらに視野を広げれば、自らの感性や知性を24時間態勢で切り売りする労働者がたくさんいる。
さまざまな芸術家たちが、立場や働き方の差異を超え「労働者」として連帯し声を上げることはこれまでほとんどなかった。芸術労働の問題は、昨今ようやく社会問題と認識された不安定労働の問題と運動と重なる。「自己責任」の名のもとに、労働者としての権利はおろか生存権さえ脅かされている現状と、どう対峙するのか。
「わたしたちはみな、消費者である前に生産者であるはずだ」。芸術家のストライキは紛れもなくこの時代の社会的表現であり、すべての芸術が社会的であることを忘れがちな、現代芸術と現代社会に対する異議申し立てでもある。
これが持続可能なものであって欲しい。単なる一過性の態度表明ではなく。もちろん、一過性のメリットを考慮しつつも。。。定義の仕方に微妙な突っ込みどころがあったとしても。。。
僕自身は京都なので参加できないけど、何かしら我々の芸術環境において鉄槌を食らわす。喧嘩売るものであることを。。。芸術=生活=労働の可能性に触れる活動であり、狼煙を上げていることなんだろうなぁと思います。
芸術と労働、この二つの言葉が並ぶことになかなか私はなじめません。
芸術という言葉は私からいつも離れてあり、近いかもしれない労働という言葉は、
自らに使ったことがなく抵抗感さえあります。でも今回はこれらの言葉を考えるよい機会で、
また先日水俣展から重なる感覚があったので書きたくなりました。
…特に利己利潤追求の企業と、情報操作し企業を擁護し続ける国家権力、
そして需要を生み出すように作られていく一般市民の感情・価値観の操作等を改めて感じ、
こうして生み出される現実の足りない部分に迫る必要性・可能性…を思いました。
漁師も企業社員も社長も厚生大臣も公務員も日雇い労働者も家事も育児もお金にならない表現活動者も…
すべての人一人一人何らかの仕事をしている。
そこで、労働を、
人間社会に生きる時に嫌でも国家や帝国の中に所属し、そこで行われるすべての働きや営み。
と考えることにしてこの言葉に私なりに近づこうと思いました。
ただこの時、今の国や資本主義は、利己利潤ばかりで形成され、
思わずして巻き込まれ都合よく使われ消耗させられたり犠牲になってしまうならば、
そうではない可能性や価値観を作ろうとする中に私の労働が少しでもあればと思います。
水俣の人たちが国家に対して戦うしかない、とされてきたように、
個人の表現云々というものではもうこの巨大な利己主義には追いつかないとさえ感じるのです。
でも社会主義や共産でなくて、それぞれ自由な立場にありながら、
価値というものをどこにどう作っていくかを思考し生活する、ということなのかもしれません。
とはいえ、どう一人一人が今を生きていくか実生活にはやはりお金が必要。
でもここでお金のことを語るならば、お金とアートの関係だけでなく、
周辺の資本や生産性を持てないさまざまな人とともに開かれた意識を持っていたいです。
たとえ市場経済のシステムの枠に入らざるを得なくても、
その為に生きていくなんてしたくはない。
システムに回収されてしまう生活、労働、表現・芸術に安住するのでなくて、
このシステムの中にいるという矛盾を抱えながら
私たちが生きることで何が行われているのかをできるだけ知りつつ、
それでも希望を持てることを感じ考え日々を作っていけたらいい。
さまざまな人の考えを知り、多くの人と意見を交わしたいです。
そうしながら現実と向き合い作業していくことで、
このプロジェクトに可能性があると感じています。
芸術と労働、いつも頭を悩ませるテーマですが、現在の経済や社会の仕組みの中にいる限り、このふたつは和解不可能であり続けるように思います。19世紀のウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動が、すでにこの不調和を、中世の社会をモデルに克服しようと試みて挫折したことは良く知られています。(それはアーツ・アンド・クラフツ運動から生み出された作品の価値とは別な話です)。最終的にモリスは、社会主義者としての活動に没頭することになりました。
今日では、ある種のエスタブリッシュされた「芸術」の周囲には巨大なインフラがあり、そこで働く人々が存在し、ひとつの「産業」が形成されています。そこではもちろん、キュレーターから監視員まで、被雇用者としての様々な問題が存在します。しかし、そこでの悩みは「芸術と経済」の問題とはやや異なり、一般企業の社員や公務員の抱える普通の雇用の場合と同質なものであると思います。「アートがアートとしての先鋭さや鋭い批評性を守りつつ、現状の社会や経済の仕組みとどのように共存できるのか、あるいはできないか」というのは、そうした個々の現場を超えてもっと射程の長い問いであると感じます。
企業と区役所が近接する空間(もともとはすべてアサヒビールの工場の敷地でした)を会場に設定した今回のプロジェクトは、その意味で、現状のアート、経済、制度についての問題を集約し俯瞰する試みとして、大変戦略的で面白いと感じます。ただし、それが作品としてであるのか、本当にひとつの社会的アクションを意図しているかについては、まだ良く解りません。もっと言うならば、アサヒビールや墨田区役所というふたつの「現場」にたいして、このプロジェクトがどのような意図を持って仕掛けられているかが解りません。その関わりが曖昧にぼかされているように感じるので(それが悪いと言っているわけではないですが)、どこか抽象的な、「現場感」の希薄なプロジェクトに感じられてしまうのです。とは言え、当日はたぶん足を運んでみようと思います。
いまや、労働と労働外を分けることができるだろうか。
例えば、労働の余暇や休日は、次の労働のためにある労働に思えることはないだろうか。
だとすれば、労働は、いつはじまり、いつおわるのだろうか。
わたしたちは、特定の時間や空間に結びつけられない労働をしているとは思えないだろうか。
私たちは、そのような種類の労働をしていることを、そろそろ、認めてみてはどうだろうか。
こんな経験が身近に思えないだろうか。
「私」でありたいと望むほど、空しさはつのるばかりだ。自分を表現するほど自分は枯渇していく。自分自身を追い詰めれば追い詰めるほど疲労する。わたしやきみやわれわれは、この「私」を耐えがたい窓口のようだと思っている。われわれは、自分自身のセールスマンとなってしまったのだ。
何を売り物にしているのだろうか。それは、生きている「私」である。労働と労働外が不可分ないま、労働と生きていること自体が重なっているのは、明らかである。「私」は、誰か、もしくは何かによって「私」を切り売りさせられている。
さらに、誰か、もしくは何かがいっていのをきいたこともあるだろう。
「何者かであれ」と。それは、命令形である。その命令は、何のためになされるのだろうか。それは、この社会を不可避なものとし、維持、させるためである。
そいつは、こうもいうだろう。
「強くあれ」と。そいつは、なぜそんなことをいうのだろうか。それは、それをいうことによって弱さが生み出されることを知ってのことである。そして、弱さが生み出されることで、強くあれという命令は、維持、されていくことも。
もはや、働くことはもちろん、愛することさえも、すべてがセラピー的な様相をみせているだろう。
繰り返すが、私たちは、そのような種類の労働をしているのである。そして、その種の労働によって、「私」を、誰か、もしくは何かが横取りしていたり、横取りさせるのに必至な奴隷がいる社会を生きているとは思えないだろうか。
だから、
生存か自由か
パンか薔薇か
身体か思考か
労働か芸術か
それにしても私たちはいつまでこの選択に迫られているのだろう。自由を大きくしようと芸術に向かえば、職が不安定になり生存が不安になる。安定した生活のためにサラリーマンをやれば、つまらなさに息苦しくなる。なぜか生存+自由の総量が決められていて、片方を増やすともう片方が減らされる。
この選択を迫る地獄のカップルめ!
この論理を歩んでも、どこにも行き着きはしないだろう。
これは統治の論理であって、この論理の内では統治されるままである。私たちはこの地獄のカップルと、お別れして、統治の論理の外に脱出しなければならないだろう。
世界の基礎(ベース)は何か?
交換(売り買い)を旨としている経済社会が基礎に存在し、その経済社会の縁の余白に交換(売り買い)になじまない芸術が、世界の余裕としてある。
そんなふうに世界はイメージされてはいないだろうか。
芸術は生きるために、まず必要なものではないから、社会への貢献は低く、それを志す者は周縁に少数いればよい、と。
あるいは芸術はとても高尚で、それには特別な人にしか関わることができず、それ故、特別な者となるには不安定さを受け入れなければならない、と。
しかし本当の世界はそんなふうではないだろう。創造的行為や生産的行為はあらゆる人があらゆる瞬間におこなっている。芸術と呼ばれているもののある部分や労働と呼ばれているもののある部分がやっていることだろう。もちろん微細な表現から突出した表現までがある。けれど、誰しもが関わり、喜びとともに創造し生産し、際限なく増え続ける。つまり、それらこそが世界の基礎(ベース)であり、それらは交換(売り買い)されるのではなく、ただ「共有」されている。
よく想い出してみるれば、日常の中で交換(売り買い)されているものなどごく少ないものだろう。一緒に労働する者同士が、仕事の方法を教えあうときになどは、交換などせず、共有するだろう。ある色の組み合わせを美しいと発見したら、ただただそれを誰かに見せたいと思うだけだ。つまり経済社会こそが、世界の基礎である交換されえない(売り買いされえない)ものを交換できるようにして恩恵を授かって寄生している側である。美しい配色は、ロゴが付いて売られる。色ほど交換しえないものはないだろうに。
自由も生存も
私たちは選択する必要はない。私たちが共有するもの(コモン)を産み出す喜びと、使用する喜びに交換(売り買い)はない。自由が増大すれば生存も増大する。
なぜ、私たちの(アワー)ストライキなのか?
問題は明らかだと思う。世界の基礎、ベーシックなものは、私たちの創造的で生産的な活動だ。それは芸術と呼ばれる場合も、あえて労働と呼ばれる場合もあるだろう。私たちが産み出したもの――売り買いができないもの――は、私たちが共有するもの(コモン)であって、例えば、資本家が売り買いすることで利益を得るための資源ではない。私たちは、共有するもの(コモン)を産み出し、自らのために使うための力(力能)を取り戻さなければならない。
だから私たち、共有するもの(コモン)を産み出す者は、統治と、例えば資本家などが私たちが共有するもの(コモン)を使用することに対しストライキする。
芸術を行うがゆえの労働には三種あるように思う。
1 アートをつくりだす労働
2 アートをつくりだすための労働
3 アートをつくりだす環境のための労働
1と2は似ているようで、少なくとも私の意識としては別ものと考える。
3には資本的なものも含まれている。
この3については、大概“不満”の意見が交わされているが、しかし、
芸術家が自立することにおいて、あるいはそれをサポートすることにおいて、
それぞれの立場で実質的な労働が行われているのだろうか。
私は、先ずこれを検証しておきたい。
芸術も家事も誰かが捨てた子猫を育てることも労働だと思う。仮に報酬をもらえなくっても。普遍的な労働という社会的行為に賃金といった分割線を引くのは、どのような力によってだろう。ストライキは暇な人間がやるのではない。好きなことしかやっていない人間がやるのではない。見捨てられた労働をしている者たちが社会に向けて行なう一つの労働だ。ストライキに賃金を!!!!
ロディ・ハーパーのサングラスを見つけようではないか。
今日はいけませんでしたが、参加された方はいかがでしたか。
ここで読んだいろんな考え方、面白かったです。
ただ、考え方や表現の自由を最大限尊重しながらも、
どれだけ結論をださず有意義な議論ができるか、
ということのは、かなり難しいことだろうなあと思ったりしました。
まあ結論は目指していないでしょうが。
生産的でも建設的でもないことは、本来”あそび”です。
いや、あそびが悪いというのではありません。
固定概念をすてて自由な発想で、新たな価値観を求めることは、
すばらしいことだとは思います。
でもそういうジャンルのひとものことから、
労働をあんまり語ってほしくないと僕は個人的に思います。
労働の目的は対価です。
そして対価には必ず責任が伴います。
責任があるからこそ、身をやつしてでも対応するのです。
それは対価を求めるために必要な代償です。
それが労働だと僕は思います。
責任や代償のない労働は労働なんかじゃなく、
単なる言葉や概念の遊びではないんですか。
それは美術ではあるかもしれませんが、僕のような思想を持つ人間からすれば、
たんなる世捨て人の世迷言としか理解できないのですが、どうですか。
この場を知ってしまったから、こうやって書き込んでみたりしましたが、
こういうのはやっぱり狭い仲間内でやるべきことなんでしょうね。
あえて議論をたきつけます。
いろんな方の意見を、もうすこしききたいです。
確か、セックスピストルズ(PIL)のジョン・ライドンが「お前ら無自覚だけど、お前らの自由は俺がつくったんだ」のような発言をします。大口を叩いてるように見えても、社会的領域、社会を越える領域双方において(大なり小なりあれ)確かにと、実感する者は多数いました。特に当時を知る者ならば。
同じようにライドンも過去、同世代の多くの活動によって「自由」、そして自由以外の多くの恩恵を受けていました。ライドンも無自覚な部分があっただろうけど、欧米の人たちはそういった功績、リスペクトをしっかり持ち、繋ぎ、つくってく。
ぼくは「芸術」と呼ばれる経済活動に結びき難い活動、あるいは、そういった経済活動そのものに反するような活動から多大な恩恵を受けていることを実感しています。受けた恩恵を少しでも返すためにはどうしたらよいでしょう?それらの活動が今だけでなく、これからも続きそしてよりよくなっていくにはどうしたら?
具体的にサポートをする。そういった活動が少しでもしやすいような社会的環境をつくる。あるいは自身でそういった活動をおこなうか。
しかし、日本では恩恵を受けているのに全く行動ができていないのがほとんどだと思います。まるで太陽や雨のように当然のもののように思っている。「ありがとう」だけでは簡単すぎる。
ぼくには金がない、資産も希望もない。ぼくはだれよりもしあわせな男だ。一年前、半年前には自分が芸術家であると思っていた。もうそんなことは考えてもいない、ぼくは存在しているのだ。(『北回帰線』より)
アダム・スミスは
「世の中にはきわめて美しく素晴らしい芸術的能力を持つ人がいて、
ある種の賞賛を集める。
だが、その能力を利用して収入を得ると、
理性的な判断からなのか偏見からなのか、
金で買われて堕落したみられる。
したがって、収入のために芸術的能力を使う人が得る金銭的な報酬は、
その能力を獲得するために費やした時間と努力、
費用に見合うだけでなく、
生活のためにこうした能力を使うことに伴う
不名誉を補えるものでなければならない。」
不名誉をおぎなう・・・!
最近、うちの社長が
他の社長族と一緒になってコンサートを企画し、
そこで依頼することになった有名歌手は、
ある欧州人の詩を勝手に訳して、
パクリか、パブリックドメインかと問題になった人・・・。
そして
そのギャラの値段が、
3時間の公演で
100万円+消費税+交通費という請求になっていて、
がっちり手元に100万円が手に入る金額になっていたのを、
社長族が驚いていた。
また、アダム・スミスは
「一方では、こうした人を軽蔑しながら、
もう一方ではその能力にふんだんに報酬を支払うのは一見、
奇妙なようにも思える。
だが、軽蔑するからこそ、高い報酬を支払う必要があるのだ。」
と、面白いことを述べていた。(笑)
“好きなこと”だから、”興味のあること”だから、といって見失ってしまうことがある。勤務時間や勤務形態、その環境。事実をどこかで隠して見えないように、無意識に見ないようにしてしまう恐い言葉。そこで摂取されていく”労働”。
こないだの撮影に参加させていただきました~
その時の雑感をツラツラ書いてみます~
撮影はアサヒビール本社と墨田区役所が建っている敷地内の色んな場所に複数のテントを設置してその状況を撮るというのが柱としてあり、テントのある風景の中で参加者が各々やりたいことをやるという感じだったと思います。
テントの移動と設置に関しては、アーティストがいて、アーティストの意図を現実にすべく奔走するコーディネーター的な人がいて、指令が下るボランティア参加者がいるという構造の下に行われていました。
僕は以前、派遣バイトでこれに近い雰囲気を経験したことを思い出しました。
詳しい事は忘れてしまいましたが、新商品をプレゼンする為のブース作りに行ったような…アピール用のオブジェ的なブツを設置したような…
撮影現場に到着してから感じたこの雰囲気から「登録派遣でイベント現場に派遣されたバイト君」という設定を自分自身に課すことにしました(貫徹できませんでしたが…)。
現代美術の現場ではこういった参加型の制作はよくあると思います。
「芸術の労働問題」にまつわる作品を「労働力未満の労働力」で制作しているという状況が、現代美術の構造を上手く象徴しているようで、個人的にはおもしろかったです。
藤井さんも含めて今回の参加者の中に、自らの「労働者性」を感じている人がどれだけいたのか、僕には興味があります。
僕はやはり、最後まで「登録派遣のバイト君」を自分に課すべきだったと後悔しています。
休憩時間になると、コーディネーター的な人が、お茶を振る舞ってくれました。
根性無しの僕は、ついついおいしくいただいてしまったのですが、「ふざけるな!甘いお菓子も用意しろ!」と怒鳴りながらコーディネーターの顔にお茶をかけるべきでした(もちろん藤井さんの顔にもです)。
すると、コーディネーター的な人も「私だって交通費しかもらってないのよ!贅沢言わないで!」とキレはじめ、別の参加者が「何を言ってるのか!弁当がなければ腹が満たされないじゃないか!」と割り込んでこなければいけなかった。
どこからか「とりあえずアサヒビールもってこい!」と、下品にがなりたてる奴があらわれたあたりから、報酬のありかたを巡って見当違いな議論が白熱し、参加者同志が不毛なケンカを始める…というような状況を作らなければいけなかったと感じています(笑)
「芸術の労働問題」に肉薄するということは、自分の立ち位置を揺さぶる行為な訳で、自らの作品自体(企画~制作~展示~撤収にいたるすべてに取巻く労働)に言及することも避けることはできないはずです。
今回の撮影で、参加者の表現行為が最大限認められていたという事実に、自らの作品への批判的内省、現代美術の制度解体をも視野に入れた意図が藤井さんにあったと勝手に解釈、妄想しています(笑)
だから、撮影現場に居合せた人は、アートの流儀(?)で、あの場所にあったはずの見えない労働を可視化する作業を、もっと積極的にやるべきだったんじゃないかと思います(していた人いたならごめんなさい)。
それが藤井さんの呼び掛けへの誠実な応答になったのかなと。
単純に社会において、よりよい仕事場、活動の場をつくるための行動、技術がある。
それは何かの申請手続きのようにマニュアルがあり、幾らかの手間をかけることでできることがたくさんある。
でもそういった行動に何か特別な色を見てしまい、行動できないでいる。日本ではそういったことに対する抵抗が高く、悶々としているが、海外ではもっとサクッととドライに頻繁におこなわれている。
行動しない理由をあれこれ挙げても、別の場、在学時、アルバイト、就労時、は上から言われ、習わしに従いあれこれおこなう。あれこれおこなっているのに、そういった上からのものがない状態だと行動できずにいる。
そんなたいしたことではないのに、あまりにも大それたことのように扱われてしまいがちでは。ゴミを収集所に出したり、貨幣を使って商品を入手したりと頻繁にしているなら、おこなえばいいのに。
寧ろ、出る杭を打っているのはもっと身近なとこ、あるいは自身ではないでしょうか。そして「出る杭は。。」的に大袈裟にしているのも。
日本では個人で助成金を申請したりし、自身の活動の状況をよりよくしても、全体の場(その業界という狭い範囲でも)をよくしようとする人はとても少ない。
更に自身だけの範囲でも助成金を申請したり、何かプレゼンテーションしたりとか行うのがとても苦手、できない人が沢山います(最近はそういったノウハウが増えてきてそうでもなくなってきていますが)。
う〜ん たいへんだ。。。
今ままでの投稿を読んで、日本では作家自身も社会もゴッホみたいな苦境を美徳とし芸術家は皆、ゴッホみたいに苦境でなければいけないと肯定している人が多数いるということを改めて思いました。まるで戦時中の教育のようです。日本ではゴッホ以外の人はほとんど知らないですしね。朝青龍批判とかのように芸術家は聖人君子であれのように首を絞めているように思えてしまいます。
『設計される意欲』(鈴木謙介)の文章で教育社会学者本田由紀の引用のあたりを少しはしょって以下に。
–
かつては集団の同調圧力にうったえかけ、超過する労働を強いて過労死に至ることが多かったが、近年は自らすすんでのめりこんでくかたちで過労死に至るケースが増えている。「好きを仕事にする」と言った趣味性、権限委譲などにより自営業主的な立場を与えることで生じるゲーム性、ケアワーカーなどのヒューマンサービス業が持つ「感情労働」的性格がもたらす奉仕性、仕事の意味についてハイテンションな、しばしば疑似宗教的な意味づけがなされ、高揚した雰囲気の中で、個々の労働者がしごとにのめりこんでいくようなサークル・カルト性。こうした性格は、他の要因とも重なりながら、安定雇用の保障や、高賃金という代価なしに労働者から高い労働力を動員するため巧妙な仕組みになっている。
–
長期雇用、終身雇用のモデルが難しい昨今、労働力を獲得するためにこういった方法、設計がとられるようになってきているようです。
ここであがっている芸術、クリエイターの場ではその設計者(企業など)がなく自然発生的に同じような状況があるように思えますが、よく考えるとその設計者もいないとも言えないような気がします。。。
ある程度の資本主義で
富や名声を少しづつ形成していくのが
人生ですから
若い時の苦労は買ってでもしろ、
ということができます。
それに
若いときにあまりに認められすぎると、
人生の後半がみすぼらしくなります。
もちろん、
芸術とは
「素晴らしい」と人を感動させる仕事のことで、
しかも時代のふるいに残るような仕事でもあるので、
自分の仕事に磨きをかけ、
その一方で
社会の仕組みを知ることも大事です。
残念ながら撮影には間に合うようにがんばったけれど参加できなかった。
今日、そのときの映像を見させてもらいました。
映像きれいですね。
とにかく作品として”芸術と労働”というテーマを掲げひとつのストーリーを作り上げたことはとても面白いと思います。
参加者の白熱した議論、思考、行為のまじめさは日本人の良さをとても表していて共感します。
これは全体として作品なのです。もちろんこのスレッドすべても。
タケウチうんわりさんのスレッドは考察が的確で、とても洞察力がすぐれていると思いました。
基本的に芸術も労働もどうでもいいことで結論はないのです。
だって人間だから。
原点はいかに自分だけが自分の遺伝子だけか生き残るか、です。
アートもつねに延長された表現系です。
そういうふうに自分が感じたことはこのプロジェクトにはエネルギーが込められた、と思います。
今後のご活躍、期待しています。
フランコ・ベラルディをはじめとするオペライズモ以降の革命家同士たちが見通したとおり、資本の下の労働はますます芸術のフリをさせられ(クリエイティヴィティ)、制度化された芸術の下で働くことはよそよそしい労働として(重層的下請けの出来高払い24時間拘束ないしヴォランティアという美名における不払い奴隷労働)われわれの前に立ち現れている。だからこそ革命の展望は相変わらず、社会=生活における芸術と労働の一致にむけてのみ拓かれる。それを先取りする存在が野宿であったりひきこもりであったり、日々の食卓であったりするのは当然のことだ。
ストライキは時間を宙づりにして、はじめて人々は当たり前のことに気づく。だとすればそれはストライキそのものが革命的=芸術的な行いであるからに他ならない。じじつ毎日の摂食障害やひきこもりほど徹底的かつ永続的なスト行為が、かつてあっただろうか。われわれプレカリアートが「ふつうでない」ことに悩む必要などない。資本の側が自動車がビールが若者に売れない苦悩を吐露しているのは、かれらが時代錯誤であるという単純な事実を示すに過ぎない。今度こそほんものの危機を!革命は近い。
いまこそ全世界同時かつ同一水準の、いや無条件というなら論理的に無制限であるべき(労働と芸術とが等しいときもはや無意味な束縛から解き放たれた)所得そのものを要求する。それが獲得されたアカツキには赤瀬川の零円札をもって盛大にビールを買い、自家製の密造酒と呑み比べてあげようではないか。
今日、藤井氏からのMLで知りましたが、墨田区の空き缶拾いに罰金20万というのはひどいですね。北京のオリンピックの時におこなわれたことよりもあからさまだ。。。
http://san-ya.at.webry.info/201008/article_3.html
行政が介入すると、良いことがないです。
現在、
江戸時代へ先祖がえりしようとする勢力があって、
江戸の三大改革「享保の改革」、「寛政の改革」、「天保の改革」
みたいなことを推進しようとする権力構造があります。
しかし、芸術家にとっては文化・文政時代のほうがよろしく、
必要以上に規制したり
よけいな行政の介入はよろしくないです。
むしろ文化・文政のほうが
景気も非常によく、いろいろな文化が繁栄していました。
しかし、お上のほうは、「享楽と堕落の時代」ということで、
質素倹約をして締め上げてきます。
そして、
歌舞伎・浮世絵産業は打撃を受けましたので、
現代にあっても
そのような質素倹約型の江戸時代行政に対して、
芸術家はたちあがるべきです。
ところで、
映画「蟹工船」を見ました。
1929年以前の話だと思いますが、現代人にとっては漫画です。
そもそも労働組合問題は、
世の中の流動化がすすんで
「探せば同じレベルの職がいくらでもある」
という社会になれば、なくてもよいものです。
ただ、昔の人は固定化された職業のなかでも辛抱強かった。
今の人は、
口は達者で、あれこれ言うけど根性がなくなった……。
豊かな社会であるからこそ、不満が募るということでしょうか?